| トップページヘ | ||||||||||||||
| がりょうざん しゅがくいん こ う け じ ![]() |
||||||||||||||
|
||||||||||||||
|
||||||||||||||
| 【高家寺の意味】 | ||||||||||||||
| [気高い心][よりどころ] すべての人、すべての生きとし生けるものには気高い心が宿っています。 煩悩に悩まされるのはただそのことに気づいていないだけのこと。 「本来、気高い魂を宿している」 高家寺はまさにそうしたことを知っていただくお寺。 広辞苑によると「高家」には「よりどころ」という意味があります。 仏教は自分をよりどころにする教え。 しかし人は弱くその自分をよりどころとするまでは 仮のよりどころを必要としています。 高家寺は、そうした「よりどころのお寺」という意味も含まれて居ます。 高家寺を建立した戸田松平氏が 大臣家である正親町三条家の出身であったために 公家を意味する「高家」を名乗ったようです。 また岐阜県最古の寺院が飛騨古川にありました。 その寺院の名前が高家寺「たきへでら」だったそうです。 高家寺のご本尊様は聖観音。慈愛を誓願とされる仏さまです。 また高家寺を発願されたのは二の丸殿という女性。 さらに高家寺の高家にはよりどころという意味があり、まさに慈愛を母体としています。 ご本尊様の誓願、 発願者の二の丸殿の願い、 初代の祐加上人の願い そして高家寺の寺名から 高家寺は慈愛のお寺でもあるのです。 臥龍山という山号は、龍が雌伏していることを意味します。 つまり力あるものが時期を待って伏せている姿。 これは学び舎を意味します・ 修学院という院号学びの場を意味しています。 各務原市は濃尾平野の北辺にあります。 高家寺は、北に三峰山、南に権現山、西に三峰山と権現山に位置する尾崎団地、 東は濃尾平野というまさに濃尾平野の北辺に位置しています。 三峰山と権現山という二つの里山と、田園と団地に囲まれた 里山のお寺です。 |
||||||||||||||
【現住職のコンセプト】 |
||||||||||||||
| お寺は:心休める場所 人と人が出会う場所 心身を癒す場所 住職としては:お寺という建物の管理人 僧侶としては:人と人の結び人 何もない時のおしゃべり相手 何かあったときの相談相手 臥龍山の名のごとく、学びの場であり、心安らぐ新たなお寺として 宗旨宗派にとらわれることなく、 すべての人が気高い心を育て学ぶ場として 活用していただければ幸いです。 |
||||||||||||||
|
|
||||||||||||||
|
寺 号:高家寺(こうけじ) 美濃新四国第41番札所 宗 派:高野山真言宗 (岐阜支所) 現 代表役員 住職 北川宥智(ゆうち) 現住所:〒504−0011 岐阜県各務原市那加北洞町1丁目390番地 岐阜バス(新岐阜9番乗り場) 尾崎ターミナル前下車 スグ 電話:058-371−2821 FAX:058-383−6328 |
||||||||||||||
|
【寺歴】 |
||||||||||||||
| <岐阜県最古の寺院> 飛騨古川に岐阜県最古の寺院が発掘されました。その寺院の名前は「高家寺」。 奈良時代よりも以前の飛鳥時代に創建されたと考えられています。 実際は「たきへでら」と呼んでいたようです。 飛騨と美濃の違いはありますが、現在は岐阜県として一つになっています。 その意味でも岐阜県最古の寺院の復興という願いを込めています。 <戸田松平氏の姫君の発願> 徳川幕府三代将軍家光の時代、寛永十六年(1639年:島原の乱平定の翌年)、戸田(松平)光重が播州明石より美濃加納(現岐阜駅南)に転封。それに従った住台寺住職祐加上人の開基と伝える。 加納城の「二の丸殿」の発願。父は戸田(松平)忠光(1598-1629 加賀守)。彼女は藩主光重(1622-1688 丹波守)の異母妹。上野七日市藩二代藩主 前田利意(1625-1685 1637藩主に)の正室となったが後に離別。母は父忠光の正室で阿波徳島藩祖蜂須賀家政の四女。 早世し跡を継がなかった父加賀守忠光または忠光の正室であった母の供養のためか、また自分自身の心の安寧を求めて建てられたものと伝わる。 戸田松平家は、譜代として初めて松平性を許される。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝とお大の方の娘)を藩祖戸田康長(1562-1632)が娶ったため。康長と松姫には長男が居たが早世。康長には妾腹の次男忠光、三男が康直がおり、忠光(加賀守)が後継者であった。彼は二代将軍秀忠と三代将軍家光の両方の名をいただいているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の光重と正妻の子の女子が居た。ところが、忠光は父康長公よりも早く戸田家を継ぐことなく亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡をとる。しかし、康直にも跡継ぎがおらず、忠光の子である光重が跡をる。この光重の妹であり、忠光公の正妻(蜂須賀家政の四女)の長女であったのが二の丸殿。 その後、戸田松平家は、公卿の羽林家の一つである今城家と何代にも渡り婚姻関係を結ぶ)淀、鳥羽などを経て、信州松本に行き明治維新を迎え子爵となる。昭和には東宮侍従長。藤原氏公季流(師輔の十男公季にはじまり、閑院家流を称する)を公称しており、大臣家である正親町三条家の支流といわれる。家紋の一つに連翹襷 ( れんぎょうだすき )を用いるが、これは正親町三条家の家紋。この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったのではないかと推測される。高家とは江戸時代の「高家職」という職制が始まる前までは貴族を意味していた。 葵の家紋は忠光公の父康直公が徳川家康公の同腹(父違い)の妹を娶り、譜代として初めて松平を名乗ることを許されたために用いられる。 高家寺の境内の確認は江戸初期の中山道の地図上に、本堂・観音堂・摩利支天鎮守堂の挿し絵がある。江戸期に盛衰あり、加納藩主安藤信成の時、その藩政に問題がありお家騒動。大名家の転封があり、永井家に変わったと同時の1756年以降の記録は散失している。そのお家騒動に巻き込まれて、住職不在になった可能性がある。 元々は現在の岐阜駅の真下に位置したが、東海道線を作る際に、地所を移動したといわれる。 昭和初期には寺領は四二五坪程度。 昭和九年(住職小出大玄)の記録によれば、 本堂(三間二尺×二間三尺) 聖観音 庫裏(五間×六間三尺) 門(二間×五尺) 井戸(一間四方) 祖師堂(二間四方) 金比羅堂(二間×一間二尺 江戸時代服部嘉兵衛寄付) 三十三所観音(一間×六間 同上) 鎮守 摩利支天 太平洋戦争の戦火により全焼。仮堂のまま平成元年に。 昭和30年篤信家の手により銀杏弘法大師が奉納 ・現在の状況 平成五(1994)年小島智宣代に現在の各務原市に移転。 平成十四年(2002年)秘鍵大師並びに三十三観音が奉納。 現在の境内は 敷地六百坪 本堂(護摩堂・大師堂を含む) 山門 渡り廊下 庫裏 水館 水掛不動明王 子安地蔵堂 鎮守:真清田社(祭神:天火明命 国常立命) 摩利支天(合祀) 茶室(耕心庵) |
||||||||||||||
|
<歴代住持> |
||||||||||||||